身の丈にあった
地に足の着いた
お天道様に恥じない事をしていこう。
これが私たち夫婦の合言葉だ。
最近はSNSのおかげで身近な人たちの言葉や行動をリアルタイムで知ることが容易にできるようになった。
人生折り返し地点に立ち、私はこれでいいのだろうか、と焦ることもある。
しかし、私はそれらの本質が見えていただろうか。
表向きは美辞麗句を並べていても
実際は周りにいる人間をちっとも大切にしていない人たちもいる。
以前はなぜあんな人たちが認められているのだろう…!と腹立たしくも思っていたが
今は、たぶんはじける前のバブルなんだな…と冷静に見られるようになった。
そのひとたちも私にとっては先生なのだ。
フェイスブックから北野武氏の言葉が流れてきた。
(以下引用・抜粋)
今の社会は、夢を持てとか、自分らしさを生かせとか、
やたらとそういうことを子どもたちに強調する。
道徳の授業もそうらしい。
夢に向かって努力することが生きる喜びになる、なんて書いてある。
貧乏だった時代には、そんなこといわなかった。
「清貧」が、あの時代の道徳だったはずだ。
最近の道徳の教科書に、そんな言葉は見つからない。
清く貧しく美しくなんてのは、もう流行らないらしい。
ほんとうにやりたいことがあって頑張っている奴を否定するつもりはない。
成功しようがしまいが、それがそいつのやりたいことであれば、思う存分にやればいい。
だいたいそういう人間は、夢を持てなんていわれなくてもやり遂げる。
夢を追いかけるといえば聞こえはいいけれど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということだ。
人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。
その今を、10年後だか20年後だかの明日のために使ってどうしようというんだろう。
昔はそういう人間を、地に足が着いていないといった。
夢なんかより、今を大事に生きることを教える方が先だったのだ。
まだ遊びたい盛りの子どもを塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。
どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。
ところで。
うちの夫婦では
旦那さんは私にとっての「重し」である。
ハーメルンの笛にフラフラついていきそうな私の。
そして私は望遠鏡でうちの旦那さんは虫めがね。
二人で進まないと石ころにつまづいて転ぶか、木にぶつかってしまう。
ただやはり、『虚』の横行する現在では
影絵に映る自分の姿を「本当の自分」だと言ってはいけない。
そして、本当に大切にすべきものは何か、を間違えてはいけない。
自分の家族や子どもすら大切にできない人が社会を良くするなんてできるはずがない。
結局、今をコツコツと生きることしかできない。
与えられた場所で与えられた役割を全うする。
そうすると、次になすべきことは自然と与えられるようになっている気がする。
積小為大(セキショウ イダイ)
大事をなさんと欲せば、小さな事を、怠らず勤むべし。
小積もりて大となればなり。
凡そ小人の常、大なる事を欲して、小なる事を怠り、
出来難を事を憂ひて、出来易き事を勤めず。
それゆえ、終(ツイ)に大なる事あたわず、
それ大は小を積んで大となる事を知らぬ故なり。(「二宮翁夜話」より)